2009/01/04

シュレーディンガーの猫と構築主義

極解と無理を承知の上で、最早単なる言葉遊びとしつつ、強引に思考実験してみる。

最近知ったのだが、量子力学の世界で"シュレディンガーの猫"と呼ばれるパラドックスがある。
簡単に言うと、
蓋のついた箱の中に生きた猫と、放射性物質、そして放射性物質がアルファ崩壊を起こすと青酸カリが発生する装置を入れる。一定時間後に観察者が蓋を開けた時、放射性物質のアルファ崩壊の有無で猫の生死が決まっているはずである。ところで、アルファ崩壊を起こすか否かは量子力学では確率的にしか示すことが出来ず、崩壊した状態と崩壊していない状態が「重なり合って」存在しうるとされている。では、箱を開ける前の状態はどのようなものかといえば、崩壊した状態と崩壊していない状態が「重なり合って」存在しているとすると、猫も死んだ状態と生きた状態が「重なり合って」存在していることになる。つまり、ミクロなレベルでの確率解釈をマクロなレベルに結びつけると異常な結論となってしまう、
ということらしい。

色々な解釈がなされていて非常に面白い、例えば、そもそも量子及び量子から構成される全てのものは存在の濃淡があるのみでこのような議論自体に意味がない、とか、量子は波と粒子の形態の転換が起こるので、「重なり合って」いるという解釈が間違い、とか。
私は門外漢なので、このパラドックスの理解も浅いだろうし、議論の中身は置くとして、興味を惹かれたのが、コペンハーゲン派の解釈、といわれるもの。
これによれば、観測者が箱を開けて観測を行った瞬間、その猫の状態群が一つの状態に収束するというもの、つまり、観測者の役割を積極的に評価し、観測時点までは確率的な存在である、ということになる。
この観察という点についても様々な解釈があるようで、繰り返すが、その妥当性は置くとして、"観察されるまでは状態が収束していない"という発想自体が非常に面白かった。


ここで勝手に連想されたのが、所謂ところの"構築主義"である。wikiから引用すると、
社会構築主義(社会的構築主義、社会構成主義、social constructionism or social constructivism)とは、現実(reality)、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、すべて人々の頭の中で(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、それを離れては存在しないとする、社会学の立場である。
ということなのだが、しばしば例示されるのがジェンダーの概念である。生物学上の性差の実態以上に、「男らしさ」「女らしさ」は人々の現実認識によって社会的、文化的、歴史的に構築されているし、それをもとにした社会がシステムとして、更に再生産を繰り返している。
あとは、『もし人が状況を真実であると決めれば、その状況は結果において真実である』というトマスの公理、そしてマートンの預言の自己成就も想起させられる。人は実際の現実のみでなく、他の人々がその現実にどう意味づけするか、に対して反応するし、その反応によって、更に現実が生み出されうる。

ここに、観察者の視点を導入すれば、観察される社会的な事実や事象は、実在するものであるが、観察者の側にそれを理解する意味や論理が備わっていなければ、真の意味でそれを解釈することは出来ないということになる。
例えば、外国人が日本に来た時を考えると、"おじぎ"という習慣一つとっても、それを知らなければ理解することができない。つまり、人と会った時にお辞儀をするという社会現象は、それを行う日本人が頭の中で意味を共有して作り出されたものである、ということだろう。
また観察者の立場との対比は歴史の解釈について端的に言える。エジプトのピラミッドは何のために作られたのか、観察者である我々は、当時の人々の意味を正確に理解できない以上、そこにあるのは解釈だけである。


さて、この二つを強引に対置させてみる。
シュレーディンガーの猫では、観察者が観察することで、現実が収束するとしているとする、他方で、構築主義において、観察者を想定するならば、観察者がその現象の一員でない限り、その現実を解釈することしか出来ない。
逆に、シュレーディンガーの猫においても現実を解釈することしか出来ないし、構築主義においては数多の現実を観察者が観察することで現実として収束させている、とも捉えうるかもしれない。
また、別の視点から言えば、観察者は純粋な観察者足り得ない、ということでもある。観察者自身がその人自身の解釈を持ってしまう、言うなれば観察者自身もその現実の一部であるという限定性から逃れることができない。
(話がそれるが、そう考えると、マスコミの「客観的報道」は究極的には無理な話で、それを意識した上で、如何に客観性を担保するか常に心を砕かねばならない。あまりに無条件に客観的だと自己認識するマスゴミが多すぎる。)


さて、これをもって、何を言いたいかというと、「てかさぁ,なぜ年が変わったからって「おめでとう」なんだ?」という疑問にマジレスを試みたいのだ。
そもそも「年が変わる」という制度自体が社会的に構築されたもので、洋の東西を問わず、西暦以外の暦は色々あるし(日本にも皇紀とか)、この日を1月1日に設定する必然性もない。
そして、社会的に構築された暦という制度に対して、「おめでたい」という意識自体も社会的に構築されたものであって、人が状況をめでたい、と決めれることで、結果において「めでたく」なっている。
つまり、年が変わって「おめでたい」のは誰しもが「おめでたい」と思うことで、「おめでたい」という現実に収束しているから、だと思う。
トートロジーに陥っている気もするが。
例えば数百年後、地球を離れた人類が、太陽系のない、つまり1年とか1日という周期がない場所で、現在を歴史として観察すれば、何を祝っているのか理解できないだろうし、さらに「祝う」という概念を喪失した世界から見れば、お祭り騒ぎが一体何なのかは理解できない。我々は年越し、というイベントをすべからく共有することで、現実を「おめでたい」ものとして収束させている、のかもしれない。


参考サイト
シュレーディンガーの猫について
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/physics/catwja.htm
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060618/1150590590
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/column5.html
構築主義について
http://d.hatena.ne.jp/Waki/20081215/p1

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

年初から難しいこと考えてるねー(笑)。現代物理学の二大潮流たる量子物理学と相対性理論は共にドイツ語圏が起源。観念と理論の世界を突き詰めることで経験的直観を裏切る結論を導くことを躊躇わないのはドイツ人の大きな特徴です。日本人はどこまで行っても空気と常識の民ですから、こういう思考実験は苦手なんでしょうね。

かく言う自分も生粋の日本人ですんで…明けましておめでとう、今年もよろしく(笑)。