2009/01/15

聖徳太子は架空の人物!?

先日のエントリーの中で、社会的構築主義を取り上げた。
この中でも若干触れたが、構築主義の立場から、「歴史」というものは、現在の我々が当時の時代的な価値基準や行動原理を持ちえない以上、残された物証や資料から当時を想像し、解釈したものでしかない、と言える。
よって、新たな物証等が見つかったり、新たな視点が導入されたりすれば、解釈が変わり、「歴史」が再構築される、ということが良く起こる。

言い換えると、「解釈」するにあたっての基準が、現代の思潮や視点による限定性を伴っている故に、「歴史」は(単なる過去という静的なものでなく)動的なものとなる。他方で、現在の思潮や視点それ自体の中に、「歴史」に依拠した言説もその一部として含まれており、再帰的に現在もまた構築されている。
例えば、ある共同体が「歴史」を共有することで現在の紐帯が生まれている時、その視点からの「歴史」はそれを裏付けるものとして解釈(それは時にフィクションの場合ですらある)され、それが現在をより強固なものとする、なんてこともある。
勿論、純粋な歴史学の立場で静的な歴史の真実を求めるアプローチも学問として確立されていようが、歴史学の顔をして、極めて現代的な関心でのみ、「歴史」を扱っている言説も多い。
(こうした意味で、所謂「歴史認識」の問題は、あくまで「歴史」ではなく「現代」の問題だと意識されねばなるまい。)

話が逸れた。
取り上げたかったのはこれ。
上武大学大学院の池田信夫教授のブログで、改訂された参考書「日本史研究」において、新たになった日本史の定説について書かれた、興味深い記事があったので、引用メモさせていただく。

・「魏志倭人伝」は存在しない:三国志の一書である魏書に「倭人の条」があるだけで、「倭人伝」という書物はない。その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、信頼性は低い。
・「任那日本府」は存在しなかった:4世紀ごろ、朝鮮半島の南部に加耶と呼ばれる小国の連合があったが、任那という統一国家はなく、日本の植民地でもなかった。これは『日本書紀』の誤った記述。
・世界最大の墓は「仁徳天皇陵」ではない:堺市にある大仙陵古墳は、つくられた時期が仁徳天皇の在位期間と違うので、彼の墓ではありえない。被葬者が大王(おおきみ)であることは確実だが、内部調査が許されないので誰かわからない。
・「聖徳太子」は架空の人物:厩戸王という推古天皇の甥が、氏寺として斑鳩寺(のちの法隆寺)を建立したことは事実だが、彼は「皇太子」でも「摂政」でもなかった(そういう地位は当時まだなかった)。十七条の憲法をつくり、『三経義疏』を著して仏教を日本に導入した聖徳太子というのは、厩戸王の死後に成立した「太子信仰」の一種で、『日本書紀』が複数の人の業績を合成してつくった架空の理想的知識人である。紙幣に使われた有名な肖像画も、彼の肖像かどうかわからないので本書には出ていない。
・「大化の改新」は存在しなかった:645年に、中大兄皇子らが蘇我入鹿(厩戸王の家系)を謀殺する政変(乙巳の変)が起こった。しかし「改新の詔」というのは『日本書紀』に書かれているだけで、そういう改革が行なわれた証拠はない。「万世一系」というのは神話で、このように古代には複数の王家が権力抗争を繰り返していた。
・天武天皇以前に「天皇」はいなかった:私的な家長の名称である大王が「天皇」と呼ばれるようになったのは、従来は推古朝(6世紀末)とされていたが、その根拠は疑わしい。唐をまねて天皇という称号を使うようになった最古の記録は677年、天武天皇の時代の木簡である


・・・あら、あらら。
うわ、「聖徳太子」って架空の人物、ってのが歴史学の定説になってるんだ!?日本史の参考書に聖徳太子の肖像、載ってないんだ!
その他も衝撃的だなぁ。
たかだか十年二十年前に学校で習ったこと、これまで「真実」として勉強してきたことが、結構変わってますね。
いやー、興味深い。

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