2009/11/20

事業を仕分けてどんな国家をつくりたいのか。(2)

(先のエントリーの続き)

また、今回の刷新会議では、地方への移管が決まったものも多い。
地方への移管というと、最近の地方自治重視の流れから聞こえはいいが、今後の地方と国の関係をどうするのか、という大局的な判断なしに、各事業について拙速に決めてしまっていいのだろうか。
2000ほどの地方自治体に任せて本当に大丈夫か、というあたりが非常に心許ない。
というのは、地方公共団体への権限の移管が進めば、必ず落ちこぼれる自治体も出てくると思うからだ。
大都市のように国に権限委譲を要求し自由度を高め、独自性を打ち出した地方自治を行う意欲と能力を兼ね備えた自治体ばかりではないのだ。
バブルも末期、「ふるさと創生事業」の名の下に1億円ずつ地方自治体ごとにばら撒いた事業が行われたことがあったが、宝くじに費やしたり、どうしょうもない箱物をつくったり、活かしきれなかった自治体が多々あったことが思い出される。

国の組織がやれば安心、ということを言うつもりはないし、個人的には例え、潰れる自治体が出てこようとも、自治の意識を高め行政への市民の参加を促すためにも、地方分権は進めたほうがいいと思っているのだが、それでも、現在、国にそこまでの覚悟があってやろうとしているのか疑問であり、なし崩し的に進んでいるように感じられる。
勿論、今回委譲される個々の事業で、すぐに地方がその運営に失敗する、ということはないだろうし、効率の観点から望ましいものも多かろう。
しかし、そもそも地方自治体と国家の関係をどうするのか、政府の意向、コンセンサスが曖昧なうちに、そのあたりを意識しないで、個別の事業だけ見直し移管を進めるのは危うい面があると思われるのだ。

誤解のないよう繰り返すと、今回の事業仕分け、各事業の実現性や効率性といった観点からの刷新が不要だ、と言いたいのではない。
事業仕分け自体は画期的な試みだし、有用だろう。
しかし、刷新の基準のレベルは2段階が必要、と思うのだ。
「どういう国家像を目指すのか」というレベルの下に、今回の「事業の実現性、効率性」と言ったレベルの判断があるのではないか。
そして、第一段階のレベルで基準があまりに曖昧で不明確なのだ。
逆に、例えば、スパコン見直しについて科学技術に対するスタンスが曖昧だと書いたが、仮に今後日本は何を差し置いても科学技術立国を目指すべく傾注する、との方針があったとしても、だから今回のスパコンの見直しは間違いだった、と即断はできない。
(上にもリンクを張った)池田氏の批判のような問題点、有用性、実現性、効率性、公平性や手段の適切さの検証は必要であるし、有効である。
各事業におけるそうした点は、これまでの行政で欠けていた視点であり、「お役所的な」仕事は見直されるべきだ。
その意味で今回の事業仕分け自体は避けがたいものであり、それが公開性を高めて行われたのはよいことだと思う。

それから、今後の国家像が見えないと指摘したが、当然、これには刷新会議だけの問題ではなく、寧ろ鳩山政権の政策方針の不明確さや、政治がビジョンを持てていないことが指摘されよう。
民主党のマニフェストはあったものの、ありとあらゆる方向に「いい顔」をしていて、大きな絵は描かれておらず、それぞれの分野を比較したときの優先度、限られた資源をどう分配するか、は曖昧なままだ。
明確にこうだ、という文章になっていなくてもよいのだが、国民全体の未来のイメージがなく、漂流している印象を受ける。
例えば、高度経済成長期は「所得倍増計画」のような、経済発展という明確なイメージがあったし、或いはブッシュ前大統領アメリカ初期も、その善し悪しは別として、世界の警察官たる、一極支配する、強いアメリカという明確なイメージがあったように思える。

これに関連して、現在の日本が抱える根本的な原因は、無理だと分かっているにも拘らず、意識的にせよ無意識的にせよ、未だに高度成長的な思考から抜け出せずにいることが指摘できるのではないだろうか。
つまり、経済は成長し、成長した分だけ増加した予算分を、どこに振り分けるか、を考えていた政治から、限られた成長、時には減少すらするパイをどこに集中するか、を思考しなければならない政治への転換ができていないのだ。
八方美人的に、ありとあらゆる方向を向いていい顔が出来ていた政策の時代から、明確な方向性をもって、意識的に必要なものを「切る」政策をしなくてはならない時代になっている。
高度成長期が増加分を奪い合い、結果的に四方八方にばら撒いていた時代であるなら、現在はその惰性から抜け出せず、減少分を押し付け合い、結果的にしわ寄せをあちこちに押し付け、痛みを分散させつつ、どこも伸ばせなくなっているのだ。
今回の刷新会議で様々な事業が俎上にのり、削減されていく姿に、「刷新」ではないとまでは言わないが、高度成長期の「総花的」なイメージのアナロジーで、「総削減的」なイメージを想起したのは私だけだろうか。

その上、赤字国債という負の遺産は、まさに高度成長期にすら経済成長分だけでは飽き足らず、未来から将来の成長を当てにして、前借した借金である。
当てにした将来の成長がなくなった現在、甘い汁を先に吸ったばかりに、困窮の度が増していることを認識すべきだろう。
その上で、「どんな国家を目指すのか」という大きな方針のもと、痛みを伴ってでも選択と集中を行うことが必要ではないだろうか。
こうしたグランドデザイン的な議論は抽象的で、個別の具体論のほうがわかり易いのだが、是非、大きなイメージを政治家に覚悟を持って語ってもらいたい。
刷新の思想的背景がない、というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも、聞こえはよくとも全ての分野に「友愛」だけで政策を行うことは出来ないだろう。

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